母からの一通で検索してしまった夜、海洋散骨という言葉がやけに静かだった理由

朝、スマホの地図アプリに「海洋散骨」と打ち込んだのは、通勤電車の中だった。吊り革に片手、もう片手で画面をスクロール。窓の外はいつも通りの灰色で、駅と駅の間の暗いトンネルみたいな時間が続く。車内広告には、結婚式場と転職サイトと、美容医療のキャンペーン。みんな「未来」を買わせようとしてくるのに、私はなぜか「死後」のほうを読んでいた。
きっかけは、昨夜の失敗だ。母から届いたLINE。「おばあちゃんのお墓、どうする?」の一文。既読をつけたまま返せなくて、寝る前の歯磨きの泡がいつもより苦かった。返さない罪悪感と、返したところで何が変わるのかという諦めが、同じコップの中でぐるぐる混ざっていた。
私は一人暮らしで、30歳で、たぶん自立している側の人間だ。家賃も光熱費も自分で払っているし、化粧品の買い物は自分のご褒美として堂々と選べる。でも「お墓」の話になると、急に自分が小学生に戻る。家族会議の空気、親戚の声の大きさ、誰が正しいのか分からないのに、勝手に決まっていく感じ。あのときの息苦しさだけが、体に残っている。
さらに今日、うまくいかなかったことがもうひとつある。朝の洗濯を干すのを忘れたまま家を出て、帰宅したとき部屋の空気が少しだけ湿っていた。そんな小さな失敗なのに、胸がざわついた。「ちゃんとしてない」が積み重なると、人はこんなにも自分にうるさくなるんだ、って。お墓の話を考え始めると、私の中の“ちゃんとしなきゃスイッチ”が勝手に最大音量になる。洗濯物ひとつ干し忘れた人が、家族の“最期の形”について語れるのか。急に、自分が信頼できなくなる。
電車の中で読んだページには、「海洋散骨は法律で明確に禁止されていない」と書いてあった。墓地や埋葬に関する法律に散骨を禁じる規定がないこと、そして昔、法務省が「節度をもって行われる限り」遺骨遺棄罪に当たらないという見解を示していること。そういう情報が、妙に私を安心させた。許可もいらない、届け出も不要。つまり、誰にも承認されなくてもできる。……その自由さが、少し怖い。自由って、誰にも止められないってことだから。
“節度”って、なんだろう。節度のない散骨って、どんな形だろう。人が笑いながら撒いたら? SNSに載せたら? 風向きも考えずに岸近くでやったら? きっとそのどれもが「いけない」と思うのに、線引きは曖昧で、答えは紙に書かれていない。しかも一部の地域では条例などでルールが設けられていることもあるらしい。全国共通の“正解”がない。だから余計に、私の心の中のモヤと似ていた。
今日、仕事の昼休み、同期の子とランチに行った。彼女は去年結婚して、最近「家を買うか迷ってる」と笑っていた。私は笑い返したつもりだったけど、スプーンがカチンと皿に当たって変な音がした。彼女が悪いわけじゃない。むしろ、いつも通りの会話。でも、その「未来の話」が眩しすぎて、私はどこに目線を置けばいいのか分からなくなった。だから、話題を逸らすみたいに、海洋散骨のページをもう一度開いてしまった。自分でも変だと思う。
海洋散骨の説明には、遺骨を「粉骨」して、形が分からないように細かくする必要がある、とも書かれていた。環境や見た目のトラブルを避けるために、骨の形が残らない程度に砕く。粉になったものは、潮の匂いの中で、海に混じっていく。理屈は分かるのに、想像すると胸の奥がきゅっとなる。骨は、触ったことがない。けれど骨って、たぶん“人”のいちばん硬い部分で、それを粉にするって、愛情の形を変えるみたいで。
私は祖母の葬儀の日のことを、ちゃんと覚えていない。覚えているのは、黒い靴の硬さと、焼香のときの手の置き場が分からなかったことと、親戚の誰かが出したお菓子の包装紙のカサカサ音。悲しいはずなのに、身体は段取りに追われて、感情は後回しになっていた。だから今になって、「どうする?」と聞かれても、感情の所在が見つからない。悲しみが足りないのではなく、悲しみの入口が分からない。入口が分からない人が、海に還すことを語るのは、ずるいのかな。
それでも私は、海に還るという言葉に惹かれてしまう。お墓という「場所」に縛られないこと。誰かが管理し続けなくていいこと。継ぐ人がいなくても成立すること。もしかしたら、それは「私が一人で生きている」ことの裏返しの願いなのかもしれない。誰にも迷惑をかけたくない、という気持ち。迷惑をかけたくないのに、すでにいろんなところで小さく迷惑をかけている自分への、免罪符みたいな願い。
ゆらぎの海を見つめる

海洋散骨を調べていると、事業者向けのガイドラインがあることも知った。契約は文書で、費用の明細を添付して、散骨後には「散骨証明書」を作って渡す。船の上ではライフジャケットなど安全装具を確保する。実施状況(件数や場所)を年度ごとにまとめて公表する、という項目まであった。思っていたより“ちゃんとしている”。それが逆に、変な感じだった。海に撒くって、もっと野生的で、誰にも届かない祈りみたいなものだと思っていたのに、そこには書類と手順がある。
私は「ちゃんとしたい」人間だ。締め切りを守るし、ポイントカードも期限内に使い切りたい。スキンケアだって工程を守る。でも家族のこととなると、ちゃんとできない。LINEが返せない。言葉が出ない。たぶん“ちゃんとしたい”の対象が、自分の生活に偏っている。家族のことをちゃんとしようとすると、急に自分が崩れてしまうから。
散骨の説明の中には、岸から離れた海域で行うこと、漁業や周辺への配慮、目立つ場所を避けること、などが並んでいた。つまり「自由」には、見えない他者が必ず付いてくる。海は広いのに、誰のものでもないのに、誰かの生活とつながっている。そう考えたら、私は急に恥ずかしくなった。昨夜、母のLINEを放置した私が、“自然に還る”なんて言葉を簡単に触っていいのか。
それでも残る、言えない本音
お墓の話って、いつも「家族のため」「故人のため」って言葉が先に立つ。でも、本音はもっと小さい。たとえば私は、誰かの墓参りの予定を立てる自分が想像できない。休日に花を持って電車に乗る自分が、どうにもピンとこない。お花が嫌いとかじゃない。むしろ好きだ。だけど、その“きちんとした悲しみ”を定期的に自分の生活に差し込むことが、私には難しそうで。難しそうと言った瞬間に、すでに罪悪感が湧く。
昼休みの帰り、コンビニで温かいコーヒーを買った。カップの熱で指先が少し赤くなる。冬の空気が乾いていて、息を吐くと白い。私はその白さを見ながら、「海洋散骨は私にとって、逃げ道なのかな」と思った。お墓から逃げたいだけ? 親戚の視線から逃げたいだけ? それとも、本当に“海に還る”ことが故人の望みなの? 自分の答えが信用できない。
でも、逃げ道だとしても、逃げたい気持ちがあることは事実だ。私はその事実を、誰にも言わないまま抱えてきた。言うと、叱られそうで。叱られなくても、軽蔑されそうで。たぶん私が怖いのは、他人の反応よりも、「自分が自分をどう扱うか」なのだと思う。自分の弱さに名前をつけた瞬間、逃げられなくなる気がするから。
海洋散骨の写真を見た。青い海、白い船、花びらが風に舞う。きれいだ。きれいすぎて、現実感がない。私はその画像をスクロールしながら、ふと自分の部屋のゴミ箱を思い出した。レシート、空き箱、読みかけの本の帯。私の生活は、そんなものでできている。きれいな海の上で、きれいに弔うことが、私の雑な毎日とつながらない。だから余計に、惹かれてしまうのかもしれない。
もし海に撒いたら、どこに会いに行けばいいんだろう。波に向かって手を合わせるのかな。海は広すぎて、手を合わせる場所が定まらない。定まらないことが、救いにもなるし、寂しさにもなる。私はどっちも同時に欲しい。矛盾しているのに、それが正直だ。
「散骨証明書」という言葉も、頭の片隅に引っかかっている。証明書があると安心する。手元に紙があると、やったことが“現実”になる。でも、証明書があることで、祈りが事務手続きに変わってしまう気もする。私の中で、安心と虚しさがいつも同居している。きっとこれからも、どちらかだけを選べない。
母のLINEに、まだ返事をしていない。返そうと思えば、返せる。たぶん「少し考えさせて」と言えばいい。でも、その一言すら、今の私には重い。「考える」って言うと、考えなきゃいけなくなるから。散骨を調べたのは、考えたくないからかもしれないし、考えたいからかもしれない。
夜、部屋の窓を少し開けた。遠くの車の音、隣の部屋の生活音、どこかで誰かが湯を沸かす気配。海は見えない。でも、海のことを考えている自分がいる。海に還るという言葉は、やさしいふりをして、ときどき残酷だ。
明日になったら、また別のニュースに心が持っていかれて、今日の検索履歴を自分で笑うかもしれない。それでも、画面の中の青い海だけは、妙に消えない。消えないまま、私の生活の端っこに、静かに座っている。
魚売り場の前を通ったとき、氷の匂いが一瞬だけ海に似ていた。そんなことで胸がざわつく自分が、ちょっと可笑しくて、ちょっと怖い。
私はまだ、何も決めていない。
ただ、決められない自分のまま、しばらく波の音のない場所で揺れている。






