一緒に住むなら覚悟が必要って言われた瞬間、なぜか私だけ置いていかれた気がした

夜のスーパーのレジ横って、なんであんなに「人生」が置いてあるんだろう。
今日は仕事帰り、最寄りのスーパーに寄って、値引きシールの貼られたサラダチキンと、卵と、洗剤を買った。自動ドアが閉まる瞬間の冷たい風と、レジの蛍光灯の白さが、やけに現実的で、少しだけ背筋が伸びる。イヤホンからはいつものプレイリスト。だけど、曲が一曲終わる前に、頭の中の別の音が大きくなった。
レジの前に並んでいた二人組。たぶん同棲してるんだと思う。買い物かごの中に、ティッシュと、冷凍うどんと、食器用スポンジ。生活の匂いがした。彼が「今月、更新の話どうする?」って言って、彼女が「うーん、親にも言わなきゃだよね」って笑った。笑ったのに、声の端っこに小さな疲れが混じっていた。
その会話を聞いた瞬間、私の中に、昔からあるフレーズがふわっと浮かんだ。
「同棲するなら結婚が当たり前。」
誰が言い出したんだろう。たぶん、親とか、親戚とか、会社の先輩とか、友達の友達とか。もしかしたら私自身も、何度か口にしたことがある。あの言葉は、正しさというより、便利さでできている気がする。説明を省ける。心配を丸められる。白黒が早い。だけど私は今日、値引きのサラダチキンみたいに、ラベルを貼られた気分になった。
同棲って、「好きだから一緒にいたい」だけじゃない。家賃が浮くとか、通勤が楽とか、夜が寂しくないとか、いろいろ混ざっている。混ざっているから、楽なのに、混ざっているから、面倒くさい。混ざり物のない恋なんて、たぶん、ない。
それでも世間の空気は、同棲を「結婚の予行演習」みたいに扱うことが多い。たしかに、結婚前に同棲したことがある既婚者が半数を超える、みたいな調査もあるらしいし(既婚者の同棲経験59.1%、そのうち同棲後に結婚した人が94.7%という調査が公開されていた)、「だから同棲=結婚に繋がる」は、数字だけ見るときれいに見える。
でも、数字はいつも、途中の湿度を消してしまう。
たとえば、同棲しても結婚しない人たち。別れる人たち。結婚したけど、あの同棲期間がしんどかった人たち。調査の母数の外側に、言葉にならない「うまくいかなかったこと」が、たぶんたくさんある。実際、同棲後に別れた経験がある人も一定数いる、というアンケート記事を見かけたことがある。当たり前だけど、同棲はゴールじゃなくて、ただの生活なんだよね。生活って、勝手に進む。
「当たり前」に追い立てられる夜

家に帰って、洗剤を棚に入れて、卵を冷蔵庫にしまった。ひとり暮らしの冷蔵庫って、いつも「余白」がある。余白があるのは、自由の証拠みたいで誇らしい日もあるし、単に空っぽで不安な日もある。今日は後者だった。
スマホを開いたら、友達のストーリーに「引っ越し準備中」の文字。段ボールの写真。うっすら写る男性の腕。そこに「同棲って、ほぼ結婚だよね〜」ってスタンプが添えられていた。軽い。かわいい。だけど、その軽さが刺さった。
私の中にあるモヤモヤは、彼女に対する嫉妬ではない。たぶん。もっとややこしいところにある。
“同棲するなら結婚が当たり前”って、誰かの安心のための言葉でもある。親が心配しないため。周りが説明しやすいため。彼が逃げないようにするため。彼女が傷つかないようにするため。……つまり、痛い目を見ないための、予防線。
だけど、予防線って、ときどき人を追い立てる。
同棲を選ぶ理由って、ほんとうはもっと柔らかいはずなのに、いつの間にか「責任」「覚悟」「期限」みたいな硬い単語に囲まれてしまう。「いつ結婚するの?」「プロポーズは?」「両親への挨拶は?」って、質問が増えるたび、二人の間にあるはずの小さな生活――洗濯物の匂いとか、コンビニの新作アイスとか、寝ぼけた会話とか――が、どんどん見えなくなる。
私が今日聞いたあのカップルの会話も、たぶん、そういう圧が混じっていた。更新の話。親に言わなきゃ。笑いながら、でも目は笑っていない、みたいな。
それに、同棲って「婚姻」ではない。法律の意味では、当たり前に違う。結婚なら婚姻届を出す。でも同棲は、出さない。出さないから、軽いのかというと、そうとも言い切れない。いわゆる事実婚(内縁)って呼ばれる関係になると、一定の法的保護が認められることがある一方で、税制や相続では法律婚と同じようには扱われない、といった注意点もあるらしい。さらに、関係性を証明するために住民票の続柄を「妻(未届)」「夫(未届)」と記載する方法が挙げられていて、そこに“届”という文字があるのが、なんだか象徴的で、少し胸がざわついた。
届いていない。未届。
言葉にすると、いま目の前にある生活が、仮のものみたいに見えてしまう。
だからみんな、「当たり前」を欲しがるのかもしれない。ちゃんと届いている、っていう安心。
でも私は、安心が欲しいくせに、安心の型に押し込まれるのが怖い。矛盾している。矛盾してるのに、矛盾のまま生きている人が、実は一番多い気もする。口では「結婚したい」と言いながら、心の中では「でも今の自由も手放したくない」って思ってたり。逆に「結婚とかいいや」と言いながら、夜に湯船でふと「いつまでこうなんだろう」って考えたり。
今日の私がそうだった。帰宅して、鍋でお湯を沸かしながら、急に、誰にも言っていない感情が浮かんできた。
「同棲したら、結婚に近づくのかな。
でも、結婚に近づきたいのかな。
近づきたいって思うのは、私の気持ち? それとも、周りの空気?」
自分の気持ちと、空気の区別がつかない夜がある。空気って、吸ってしまうから。
「結婚しない同棲」は、逃げなのか
ここから先、すごく言いづらいことを書く。
私、同棲に憧れがある。だけど、同時に、同棲が怖い。
憧れは、簡単。朝、誰かの寝息があって、コーヒーの香りが二人分になって、休日に「今日なに食べる?」って聞ける日々。寒い夜に「ただいま」を言い合える家。
怖さは、その全部が、簡単に“当たり前”になって、簡単に“要求”になってしまうこと。
同棲って、生活の共同経営だ。家賃、光熱費、家事、時間、体調、機嫌。恋人のままでいたいのに、ルームメイトみたいになってしまう瞬間がきっとある。そうなったとき、「じゃあ結婚すれば?」って言われるのも、なんか違う。「結婚」という言葉が、問題の解決策として置かれるのが、怖い。
だって結婚って、本来、二人が選ぶ“形”であって、摩耗を補修する接着剤じゃないはずなのに。
じゃあ、「結婚しない同棲」は逃げなのか。
それも、違う気がする。
逃げって、もっと自分を守るためだけの行動だと思っていたけど、結婚しない選択にも、ちゃんとした理由がある人がいる。名字を変えたくない人。仕事の事情がある人。家族と距離をとりたい人。同性カップルなど、法律婚が選べない事情がある人。事実婚という形が広がっている、という話も見かける。
それに、そもそも「結婚」という制度が合わない人だっている。誰かと暮らしたい、でも制度には入りたくない。制度に入ると、なにかが急に“社会のもの”になってしまう感じがする。二人のことなのに、二人だけのことじゃなくなる。
私は、その「二人だけじゃなくなる」感じが、妙に苦手だ。
たぶん私は、誰かと暮らしたいという気持ちと、誰かに自分の生活を差し出したくないという気持ちが、同じくらいある。冷蔵庫の余白を守りたい。だけど、その余白に誰かの飲み物が並ぶ未来も、想像してしまう。
今日うまくいかなかったことは、たぶん、気持ちの整理じゃない。
整理しようとしたことが、うまくいかなかった。
「当たり前」って言葉が出てくるたび、私は自分の人生が、誰かのテンプレートに沿って採点されている気がする。たとえば、同棲したら次は結婚。結婚したら次は出産。出産したら次は…みたいな。
そのテンプレートに乗れないと、どこかで“遅れている”みたいに扱われる。
でも、遅れているって、何に対して?
誰の速度に対して?
問いを立てたところで、答えはまだない。答えを出すと、また誰かのテンプレートに戻りそうで、怖い。
いまの私は、たぶんこういう状態だ。
同棲したい気もする。
結婚したい気もする。
でも、どちらも「したい」と断言できない。
断言できない自分を、弱いとも思うし、正直だとも思う。
ただ一つだけ、今日のレジ前の会話で気づいたことがある。
「当たり前」という言葉は、誰かの背中を押すふりをして、時々、背中を押しつぶす。
私は、押しつぶされないように、でもひとりで固くならないように、生きたい。
そのバランスを探すのに、たぶん、時間がかかる。
それにしても、同棲って「一緒に住む」だけなのに、どうしてこんなに重いんだろう。たぶん、家はただの箱じゃなくて、心の置き場所でもあるから。鍵を渡すって、財布を共有するより、秘密を共有するより、もっと大きい気がする。靴箱の匂い、洗面所の髪の毛、寝起きの顔、疲れて機嫌が悪い日、涙が出る日。そういう“見せなくていい部分”が、毎日、相手の目に入る。
それでも「見せたい」と思える相手なら、きっと素敵だ。
でも私は、見せたい気持ちと、見せたくない気持ちを、まだ同じポケットに入れたまま歩いている。
鍋のお湯が沸騰して、湯気が窓に白くついた。
その白さが消えるのを見ながら、私は今日も、答えの代わりに余韻だけを置いて、眠る。





